菜根譚㉒
至人(しじん)は何をか思い、何をか慮(おもんばか)らん。
愚人(ぐにん)は不識不知(ふしきふち)なり。
与(とも)に学(がく)を論(ろん」)ずべく、亦(また)、与(とも)に功(こう)を建(た)つべし。
唯(ただ)中才(ちゅうさい)の人のみ、一番の思慮知識(しりょちしき)多ければ、
便(すなわ)ち一番の億度猜疑(おくたくさいぎ)多く、
事々(じじ)に与(とも)に手を下し難(がた)し。
至人(しじん→道を修して究極に達した人、道を体得した人。
『荘子』に「若し夫れ天地の正に乗じて、六気の弁を御し、以て無窮に遊ぶ者は、
彼且に悪くにか待たんや。故に曰く、『至人は己無く、神人は功無く、聖人は名無し』と」とあり、また「至人は上青天を闚い、下黄泉を潜り、八極を揮斥し、神気変わらず」とある。
何をか思い、何をか慮(おもんばか)らん→『易経』に「子曰く、天下何をか思い、何をか慮らん。天下帰を同じくして塗(みち)を殊(こと)にし、至を一にして慮を百にす。天下何をか思い、何をか慮らん」とある。
中才(ちゅうさい)の人→中途半端な才人、通り一編の普通の知識しか持ち合わせていない人。
億度猜疑(おくたくさいぎ)→あれこれと憶測推量し、嫉み疑うこと。
道に達した人は、胸中にあれこれ思い煩う事は何もない。
また、愚かな人ははじめから知識にとらわれて居ない。
何のこだわりもないこの様な人達とは、一緒に学問を論ずる事もでき、また、一緒に協力して事業を興す事も出来る。
中途半端な知識を身に付けている人だけは、一通りの思慮や知識を具えているので、
それで、素直にものを信ぜず、あれこれと思いをめぐらし、疑い深い心も多くて、この様な人達とはどんなことでも、一緒に仕事をするのは難しい。
勉強や思考錯誤や実験を続けている専門家やまだ何の経験や知識のないい人は、
様々な問題を成功や失敗を繰返しながら成長して世の中の役にたっていく可能性があります。しかし、一応勉強をしてそこそこの知識があるがその後の成長が無い人は、何の裏付けもない誰が言ったかも判らない事を自分の知識で判断したと勘違いをして、世の中の流れを
停滞させる。しかし、この人達は変わらない同じことを続けていても飽きないどころか、安心さえします。貴重な存在かもしれません。
日常の事はその様な人達に下支えしてもらいながら、学び乗り越える事が好きな人達は世の中の変化に対応して全ての人たちが生存できるように行動してください。
疲れた時は東京赤坂のHippocrates(ヒポクラテス)で足裏の足つぼフットマッサージをして疲れを
癒しながら世の中を牽引していってください。お願い致します。
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