菜根譚㉜
一字(いちじ)も識(し)らざるに、而(しか)も詩意(しい)有(あ)る者は、
詩家(しか)の真趣(しんしゅ)を得(う)。
一偈(いちげ)も参(さん)ぜざるに、而(しか)も禅味(ぜんみ)有(あ)る者は、
禅教(ぜんきょう)の玄機(げんき)を悟(さと)る。
一字(いちじ)も識(し)らざるに→一字も文字を解することができない。禅宗六祖慧能は文字を知らなかったが、経典を理解することができたという。『景徳伝灯禄』「慧能伝」に、「尼、遂に巻を執りて字を問う。師(慧能)曰く、『字即ち識らず、義は即ち問わんことを請う』と。尼曰く、『字すら尚識らず、曷んぞ能く義を会せん』と。師曰く、『諸仏の妙理は文字に関わるに非らず。と」とある。
偈(げ)→梵語gāthāの音訳で、頌(じゅ)と意訳し、偈頌(げじゅ)ともいう。
禅の妙旨を述べた漢詩。六祖慧能は師の弘忍のもとで、兄弟子神秀の、「身は
是れ菩提樹、心は明鏡台の如し。時々に勤めて払拭し、塵埃を惹かしむること
勿れ」という偈に対し、文字は知らなかったが、「菩提本(もと)樹無し、明鏡
も亦台無し、本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん」という偈を作って一童子
に書いてもらい、これによって弘忍の法を嗣いだという。
文字は一字も知らないのに、詩の心がある人は、詩を作る人達の本当の心持ちを理解できる。また、偈頌(げじゅ)は一つも習っていないのに、心に禅の妙味が備わっている人は、禅の教えの最も大事なはたらきを悟る事ができる。
昔から師匠に習う最も大事な方法は口伝だったようです。
現在は聞いたことをメモしたり、ネット上で調べたりして理解したように思っている人が
多いようですが、先生方に聴くと大切なことは面と向かって言葉でつたえているようです。
その時に勘違いをしないで理解していることを確認している様です。
今も昔も大切なことは対面で記憶するような教えみたいです。
師との対面なので、当然緊張が伴います。
疲れた時は東京赤坂のHippocrates(ヒポクラテス)で足裏の足つぼフットマッサージをして
緊張をほぐしてください。
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