菜根譚㉝
人の情(じょう)は、鶯(うぐいす)の啼(な)くを聴(き)かば則(すなわ)ち喜(よろこ)び、
蛙(かえる)の啼(な)くを聞(き)かば則(すなわ)ち厭(いと)う。
花を見(み)ば則(すなわ)ち之(これ)を培(つちか)わんことを思い、
草に遇(あ)わば則(すなわ)ち之(これ)を去(さ)らんことを欲(ほっ)す。
倶(とも)に是(これ)れ形気(けいき)を以(もっ)て事(こと)を用(もち)うるのみ。
若(も)し性天(せいてん)を以(もっ)て之(これ)を視(み)ば、
何者(なにもの)か自(みず)ら其(その)の天機(てんき)を鳴(な)らすに非(あら)ざらん、
自(みず)ら其(その)の生気(せいき)を暢(の)ぶるに非(あら)ざらんや。
形気(けいき)→形体と性質。ものの外面的、表面的な部分。
性天(せいてん)→天性、本性。ものの内面的なあり方、真実なもの。
天機(てんき)→天賦の素晴らしいはたらき。
人の心は、鶯が美しい声で鳴くのを聞くと喜び、蛙が騒がしく鳴くのを聞くと嫌に思う。
また、美しい花を見るとそれを栽培しようと思い、雑草の様なつまらないものが目に入ると、それを抜き取りたく思う。この様に思うのは、いずれも物事の表面的なもので良いか悪いかを判断しただけである。
もし、それらのものの内面的なものを見たなら、どれが自らそれ自身、その天性の妙なる声を鳴らさないものがあろうか。また、どれがそれ自身、万物を生成させるためのはたらきをしないものがあろうか。
人は好き嫌いで物を判断しがちですが、世の中に長く存在している事は必要だからです。
それでも好みや都合でやむを得ず受け入れていかなければならない事は沢山あります。
そのストレス性疲労は、東京赤坂のHippocrates(ヒポクラテス)で足裏の足つぼフットマッサージをして癒してください。
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