菜根譚㊱
晴空(せいくう)郎月(ろうげつ)、何(いず)れの天(てん)か翺翔(こうしょう)すべからざん。
而(しか)るに飛蛾(ひが)は独(ひと)り夜燭(やしょく)に投(とう)ず。
清泉(せいせん)緑卉(りょくき)、何(いず)れの物(もの)か飲啄(いんたく)すべからざん。
而(しか)るに鴟鴞(しきょう)は偏(ひと)えに腐鼠(ふそ)を嗜(たしな)む。
噫(ああ)、世(よ)の飛蛾(ひが)鴟鴞(しきょう)と為(な)らざる者、
幾何(いくばく)の人ありや。
飛蛾(ひが)→飛んで火にいる夏の虫ことで、自ら危険の中に飛び込むこと。
『梁書』の「致漑伝」に見える故事。
緑卉(りょくき)→卉は草、もしくは草木のこと。青々とした草のこと。
鴟鴞(しきょう)→フクロウのこと。フクロウは他のものは食べない様な腐った鼠の様なもの
を好んで食べる。『荘子』に「南方に鳥有り、その名は鵷鶵(えんすう)。
醴泉(れいせん)に非ざれば飲まず。是に於て、鴟(ふくろう)、腐鼠を
得たり。鴟鴞之を過ぐ。仰ぎて之を視て曰く、『嚇』と。云々」とあり、
「民は芻豢(すうかん)を食らい、糜鹿は薦を食らい、蝍蛆(むかで)は
帯(へび)を甘しとし、鴟鴉(ふくろう)は鼠を嗜む。四者、孰れか正味を
知らんや」とある。
よく晴れて明るい月が出ている大空は、どこでも自由自在に飛び回る事が出来ないことがあろうか。それなのに、飛び回る蛾だけは、ことさら自分から灯火の中に身を投じて焼け死んでしまう。また、清らかな泉の流れや、緑の草は、どれでも飲んだりついばんだりする事が出来ないものがあろうか。それなのに、ふくろうだけはわざわざ、腐った鼠の肉だけを好んで食べている。
ああ、それにしても、世の中にこの蛾やふくろうの様にならない者が、いったい幾人いるであろうか。
良い環境で好きな事を安全にやる事が出来るのにわざわざ危険な事や危ないものに興味を持つ人がいます。これは、あまりにも暇がありすぎるからだと思います。
人は少し忙しい方が頭も働くし悪いことをやっている暇がないかと思います。
休むことは後回しにして、懸命に働き、疲労回復には東京赤坂のHippocrates(ヒポクラテス)で足裏の足つぼフットマッサージをしてください。
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