菜根譚㊳
真(しん)の空(くう)というも空(くう)にあらず。
相(そう)に執(しゅう)するは真(しん)にあらず、
相(そう)を破(は)するも亦(また)真(しん)にあらず。
問(と)う、「世尊(せそん)は如何(いか)に発付(はっぷ)するや」と
「在世(ざいせ)も出世(しゅっせ)も、欲(よく)に徇(したが)う是(こ)れ苦(く)にして、
欲(よく)を絶(た)つも亦(また)是(こ)れも苦(く)なり。
吾(わ)が儕((せい)の善(よ)く自(みず)から修持(しゅうじ)するに聴(まか)す」と。
真の空というも→万物に固定的実体や不変の存在を認めないのが仏教の基本的立場であり
(諸行無常・諸法無我)、こうしたあり方を空というが、この空ということも真理であると措定してしまうと空を固定的にとらえることになってしまう。
相(そう)→物事の表相、あらわれた様。種々の因縁が和合してあらわれているのが相であるから、その相にはやはり固定的実体はないが、因縁和合のあり方も仏教の心理。つまり縁起であるから、これを否定することもできない。
発付(はっぷ)→発遣給付の意味で、意見を言うこと。釈尊の言葉とされるものは恐らく洪自誠自身の意見とみられる。
在世(ざいせ)も出世(しゅっせ)も→在世は世間にあること。在家の身。出世は世間・世俗と離れること。家を出て修行者の仲間に入ることで、出家比丘の身。
吾(わ)が儕((せい)→儕は仲間・我らの意味。
本当の空であると固定的にとらえてしまうと、それは空ではなくなってしまう。
姿かたちにとらわれるのも真実ではなく、姿かたちを否定してしまっても、
やはり真実の姿ではない。
問う、「釈尊は、この点をどの様におっしゃられるか。」
釈尊は、「ざいけの身でも出家の身でも、欲望に従うのは苦であり、欲望を断ち切るのもまた苦である。私たちがよく身心の修養につとめる以外に真実はない」とおっしゃられよう。
何かをする時はこだわりがあることで良い結果が出るし、面白さもあります。
が、こだわることにこだわりすぎると自画自賛になりかねません。
物事の評価は自分以外の人が行います。そこに賞賛や批判があり、それが面白さや活力に繋がります。うまく行かない時があるからこそ成功した時の喜びもあります。
人生は大変の連続だからこそ飽きないのです。
しかし、それは疲れることです。だからこそ東京赤坂のHippocrates(ヒポクラテス)で足裏の足つぼフットマッサージをして終わることのないこだわりを楽しみましょう。
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