菜根譚⑧
泛駕(ほうが)の馬も、馳駆(ちく)に就くべく、躍冶(やくや)の金(きん)も、終に型範(けいはん)に帰す。只一(ただいつ)に優游(ゆうゆう)して振わざれば、更(すなわ)ち終身個の進歩無し。
白沙(はくさ)云う、「人と為(な)り多病なるは、未だ羞ずるに足らず。
一生病無きは、是れ吾が憂いなり」と、真に確論(かくろん)なり。
泛駕(ほうが)の馬→泛は、くつがえす。疾走して軌轍(きてつ)をはずれ駕をくつがえす様な
暴れ馬。常軌に従わない英雄の例えとして用いる。
馳駆(ちく)→暴れ馬を上手に御して自在に走らせること。
躍冶(やくや)の金→鋳物師の意のままにならず鋳型を飛び出すような金属。放縦な人の例。
型範(けいはん)→鋳物を流し込む鋳型。
優游→ゆったりした様。ぐずぐずして決断力が乏しい様。優柔不断。
白沙→明の中期の儒者陳献章のこと。字は公甫。号は石斎、白沙先生、活孟子と称された。
程朱の学、むしろ周程の学祖述し、周廉渓以来の「静」を重んじ、禅を参考にし、静座・内省によって宇宙の理を説き明かそうとした。
車を撥ね飛ばす様な暴れ馬でも、人の御し方次第でよく走らせることができるし、鋳型を跳
り出せる様な硬い金属でも、上手な鋳物師の手にかかると、結局は型に収まってしまう。
これに対して、ただぐずぐずと毎日を過ごしてばかりいて、何ら奮起もしない様な人間は、
そのまま生涯少しの進歩もなく終わってしまう。
陳白砂がいうには「生まれながらに病気が多いのは、ちっとも恥ずかしいことではない。
むしろ一生涯、病気をしないで病気の苦しみも知らないほうが人間としては不幸である」と。本当に確かな議論である。
人は何お問題もなく生涯を終えるよりは、病気や問題に直面して乗り越える機会がある法が
良い人生です。
それでも、病気や問題の対応でつかれたら、東京赤坂のHippocrates(ヒポクラテス)で足裏の足つぼフットマッサージをしてまた、人生の荒波を乗り越えましょう。
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