菜根譚㉘
寒燈(かんとう)焔(ほのお)無く、敝裘(へいきゅう)温かさ無きは、
総(すべ)て是(こ)れ光景(こうけい)を播弄(はろう)するなり。
身(み)は槁木(こうぼく)の如(ごと)く、心は死灰(しかい)に似(に)たるは、
頑空(がんくう)に堕落(だらく)するを免(まのが)れず。
寒燈(かんとう)→寒は貧しい、寂しい様子。今にも消えそうな頼りないともしび。
敝裘(へいきゅう)→裘は獣の毛皮で作った衣服。古くなって破れてしまった皮衣。
播弄(はろう)→もてあそぶ。
槁木(こうぼく)の如(ごと)く→枯れ木や火種の無くなってしまった灰。人間的な潤いや感情が無くなった状態。『荘子』に「形は個(まこと)に槁木の如くならしむべく、心は個(まこと)に
死灰の如くならしむべきか」とある。
禅では「枯木死灰」を、煩悩妄想の熱気はないが、空無の見解に固執して下化衆生の機用のない意味に用いる。自己の欲望を制御して枯木寒巌になるという誤った修行僧を一老婆が批判した「婆子焼庵」の公案は有名。
頑空(がんくう)→空無の一辺に滞りかたよること。
さびしい燈火は炎が消えかかり、破れた皮衣は少しの暖かさも感じられないような事では、
それでは、全く簡素というk状態をもてあそんでいるにすぎない。
また、その身は枯木の様に少しの潤いもなく、その心は冷え切った灰の様に少しの情もなくなってしまったのでは、空という事をはき違えて、頑なにすべてが無であるという見解に落ち込む事を免れる事が出来ない。
どの様な見識や学びも人に対しての行いや行動によって生きて学ぶ意味があります。
人を無視した行いはどんなに高尚な事でも独りよがりになります。
学びは難しく疲れます。
東京赤坂のHippocrates(ヒポクラテス)で足裏の足つぼフットマッサージをしてリフレッシュして学びを続けましょう。
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